奈良岡朋子さん、演劇人生を振り返る。その功績とは?93年の生涯、舞台と映像で輝き続けた女優
演劇界の重鎮、奈良岡朋子。医師志望から演劇へ転身し、劇団民藝で看板女優として活躍。7000ステージ以上に出演し、数々の名作を生み出した。石原裕次郎、高倉健との交流も。93歳で逝去するまで、演劇への情熱を持ち続けた彼女の軌跡を振り返る。
💡 劇団民藝の創立メンバーとして、数々の舞台で主演を務め、演劇界に大きく貢献。
💡 映画やテレビドラマでも幅広く活躍し、数々の受賞歴を持つ実力派女優だった。
💡 晩年まで舞台に立ち続け、後進の指導にも熱心で、演劇界の発展に尽力した。
奈良岡朋子さんの華麗なる演劇人生を、改めて振り返ってみましょう。
演劇への道:始まり
奈良岡朋子が演劇の道へ進んだきっかけは?
終戦と父の影響、大学の演劇部への参加。
奈良岡朋子さんの演劇人生の始まりについて見ていきましょう。
公開日:2023/03/29

✅ 新劇を代表する俳優であり、劇団民芸の代表であった奈良岡朋子さんが肺炎のため93歳で死去しました。
✅ 1950年の劇団民芸創設に参加し、数多くの舞台に出演。映画やドラマでも活躍し、後進の指導にも熱心でした。
✅ 映画「原爆の子」への出演や井伏鱒二の「黒い雨」の一人語りなど、戦争の悲劇を語り継ぐ活動も行っていました。
さらに読む ⇒朝日新聞デジタル:朝日新聞社のニュースサイト出典/画像元: https://www.asahi.com/articles/ASR3Y5HRMR3YUCVL017.html奈良岡朋子さんが、医師から演劇の世界へ転身されたことに驚きました。
父親の影響や、大学での出会いも大きかったのですね。
1929年、東京都で生まれた奈良岡朋子は、元々医師を目指していましたが、終戦後の自由な時代と父親である画家の影響を受け、美術大学に進学し演劇の世界へと足を踏み入れました。
大学の演劇部での活動を通じて演劇に魅了され、1948年に民衆芸術劇場(後の劇団民藝)の研究生となり、宇野重吉や滝沢修の演技に感銘を受けます。
父親の反対を押し切り、卒業を条件に入団を許され、絵を描くことを禁じられ演劇の道に進みます。
劇団での厳しい稽古を経て、1950年の劇団創立に参加し、看板女優として活躍していきます。
いやあ、奈良岡さんのご活躍は、まさに戦後の日本の文化を支えたものだったね。若い頃の決意が実を結んだってことだな。
舞台から映像へ:多岐にわたる活躍
奈良岡朋子の代表作は?舞台・映画・テレビ出演も網羅!
『かもめ』『黒い雨』『おしん』など多岐にわたる。
奈良岡朋子さんの舞台から映像へ、多岐にわたる活躍について見ていきましょう。

✅ 奈良岡朋子さんは1929年生まれの女優で、1948年に民衆芸術劇場の研究生となり、1950年の劇団民藝創立に参加しました。
✅ 劇団民藝の舞台に7,000回以上出演し、2000年には劇団代表であった滝沢修の逝去に伴い共同代表となり、2012年からは代表を務めました。
✅ 2023年3月23日に肺炎のため93歳で逝去し、映画やテレビドラマにも多数出演し、数々の賞を受賞しました。
さらに読む ⇒劇団民藝公式サイト出典/画像元: https://www.gekidanmingei.co.jp/member/profile/naraokatomoko/7000回以上の舞台出演というのは、本当にすごいですね。
映画やドラマでも様々な役を演じられ、まさに多才な方だったんですね。
劇団民藝での活動は、奈良岡さんの女優としての才能を大きく開花させました。
代表作には『かもめ』、『黒い雨』、『バウンティフルへの旅』、『二人だけの芝居』、『根岸庵律女』、『ドライビング・ミス・デイジー』などがあります。
「煉瓦女工」で初めて主演を務め、7000ステージ以上の舞台に出演しました。
また、外部出演舞台としては『ラヴ・レターズ』、『放浪記』など、映画では『土を喰らう十二ヵ月』、『高津川』、『ホタル』などに出演。
テレビドラマでは『徹子の部屋』、『やすらぎの刻~道』、『江~姫たちの戦国』、『おしん』(ナレーション)など、多岐にわたる分野で活躍しました。
舞台だけでなく、映画やドラマでも活躍されたんですね。幅広い世代に愛される女優さんだったんだなあ。
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劇団民藝を支え、93歳で逝去した女優・奈良岡朋子。宇野重吉との出会い、大スターとの交流、そして演劇への情熱を綴る。