ザ・デストロイヤーとは?白覆面と4の字固めで日本を熱狂させた男の功績とは?プロレス界のレジェンド、ザ・デストロイヤー。
白覆面の魔王、ザ・デストロイヤー。力道山との伝説の一戦、足4の字固め、そして日本愛。昭和プロレスを彩った最強覆面レスラーの波乱万丈な生涯を振り返る。スタン・ハンセンを育て、日本のプロレス界に貢献した彼の偉大なる足跡を辿る。
馬場、猪木との激突とBI抗争
デストロイヤー、馬場・猪木との名勝負!その象徴とは?
BIの緊張関係を象徴する試合。
馬場、猪木との激突とBI抗争、昭和プロレス史における激動の時代。
公開日:2024/08/25

✅ 1979年、東京スポーツが創立20周年記念事業として、新日本プロレス、全日本プロレス、国際プロレスの三団体によるオールスター戦を企画し、実現に向けて各団体との交渉を開始した。
✅ 最大の難関は、長年の確執があるジャイアント馬場とアントニオ猪木の対戦実現だったが、東スポの仲介により、最終的に馬場&猪木のB・I砲復活を軸に、ブッチャー&シンとの対戦が決定した。
✅ オールスター戦は、三団体の代表による会談を経て開催が決定し、対戦カードも発表されたが、猪木の更なる要求により交渉が難航。最終的に馬場と猪木は代理人を立て、B・I砲復活が実現した。
さらに読む ⇒伊賀プロレス通信時出典/画像元: https://igapro24.com/2019/01/02/historia-110/BI砲復活の裏には、東スポの尽力があったのですね。
デストロイヤーは、様々なレスラーと戦い、その存在感を示しました。
デストロイヤーは、ジャイアント馬場とも対戦し、その技術と2人の呼吸の良さを見せつけました。
また、アントニオ猪木との試合もベストバウトとして語り継がれ、昭和プロレスにおけるBI(馬場・猪木)の緊張関係を象徴する試合となりました。
デストロイヤーは、力道山の好敵手としてだけでなく、馬場や猪木といった日本のトップレスラーとも激闘を繰り広げ、その存在感を示しました。
BI砲って、そういう意味だったんですね!プロレスって、ただの格闘技じゃないんだな。
ハンセンとの出会いとプロレス界への影響
ハンセンを支えたデストロイヤーの役割とは?
的確なアドバイスでハンセンを後押しした。
ハンセンとの出会い、デストロイヤーがハンセンに与えた影響とは?。
公開日:2019/03/08

✅ ザ・デストロイヤーは、1930年生まれのアメリカのプロレスラーで、1963年に日本プロレスに初来日し、力道山との激闘や必殺技の4の字固めで人気を博した。
✅ 彼はインテリジェンスなレスラーとして知られ、力道山晩年のライバルとして活躍。特に、1963年の力道山とのWWA世界選手権は高い視聴率を記録した。
✅ コワルスキーとの「平手打ち事件」は、デストロイヤーが日本のファンに受け入れられるきっかけとなり、その裏にはビジネス戦略とコワルスキーの協力があった。
さらに読む ⇒年生まれ男のロマン出典/画像元: https://www.roman-blog.com/pro_wrestling/%E8%BF%BD%E6%82%BC%E3%82%BB%E3%83%B3%E3%82%BB%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%8A%E3%83%AB%E3%80%8C%E3%82%B6%E3%83%BB%E3%83%87%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%AD%E3%82%A4%E3%83%A4%E3%83%BCハンセンにアドバイスを送るなど、デストロイヤーは後進の育成にも力を入れていたのですね。
覆面レスラーが増えたのも、彼の功績かもしれません。
1975年、スタン・ハンセンは「最強の外人レスラー」としての地位を確立する以前に初来日し、ジャイアント・シリーズに参加しました。
蔵前国技館でのデストロイヤーとの試合では、デストロイヤーの巧みな戦術に翻弄され、ギブアップ負けを喫しました。
デストロイヤーは、ハンセンにメインイベントを盛り上げるよう促し、全日本プロレス移籍後も的確なアドバイスを送るなど、その後のハンセンの活躍を後押ししました。
ハンセンは、デストロイヤーの言葉に励まされ、全日本プロレスでの成功を確信し、トップレスラーへと駆け上がりました。
デストロイヤーの影響で、日本でも覆面レスラーが多数登場し、海外武者修行を経て覆面レスラーとして再デビューするケースも見られました。
スタン・ハンセンも、デストロイヤーの影響を受けていたんですね。いやあ、勉強になります。
晩年の姿と、そのレガシー
覆面レスラー、デストロイヤーの日本への貢献とは?
後進の指導、レスリング教室開催など。
晩年の姿と、そのレガシー。
日本との深い繋がりがあった。

✅ プロレスラーのザ・デストロイヤーが88歳で死去。覆面レスラーとして日本で高い人気を誇り、力道山やジャイアント馬場との死闘はテレビ視聴率を記録した。
✅ 得意技の足4の字固めは代名詞となり、日本テレビのバラエティ番組にも出演するなど、プロレス以外でも活躍した。
✅ アントニオ猪木とも米国時代から因縁があり、日本のプロレス界に大きな足跡を残した。
さらに読む ⇒ オールドファッションド・クラブ出典/画像元: http://oldfashioned.cocolog-nifty.com/blog/2019/03/post-eeb2.html晩年までマスクを着用した姿勢はプロフェッショナルですね。
日本での生活も長く、まさに日本のプロレス界を支えた存在と言えるでしょう。
デストロイヤーは、晩年までマスクを着用し、徹底した姿勢を貫きました。
日本に7年間在住し、後進を指導するなど、日本のプロレス界に貢献しました。
麻布十番に住み、子供を日本で育て、レスリング教室を開くなど、日本との深い繋がりを持ちました。
2019年3月7日、ザ・デストロイヤー(本名リチャード・ベイヤー)氏は88歳で死去しましたが、彼の活躍と人気は今も語り継がれています。
日米の覆面レスラーの礎を築き、約40年のキャリアで8000試合以上に参戦したデストロイヤーは、昭和プロレス界にその名を刻みました。
デストロイヤーは、本当に日本が好きだったんですね。彼の功績は、永遠に語り継がれるべきです。
デストロイヤーのプロレス人生は、まさに波乱万丈。
彼の功績は、日本のプロレス界に大きな影響を与えました。
💡 デストロイヤーは、白覆面と4の字固めで日本プロレス界に貢献した。
💡 力道山、馬場、猪木らとの名勝負は、プロレスブームを牽引した。
💡 晩年まで日本で暮らし、プロレス界に貢献し、その功績は今も語り継がれている。