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宮城まり子さんの生涯と、ねむの木学園の軌跡とは?宮城まり子:歌声と愛、障害者支援にかけた情熱

歌手、女優として活躍後、障害児支援に生涯を捧げた宮城まり子。母の教えを胸に、波乱万丈の芸能生活を経て、28歳で障害児施設「ねむの木学園」を設立。子どもたちを愛し、才能を育む姿は世界を魅了。ヒット曲、映画製作、美術活動、そして「ねむの木村」構想…その情熱は今も生き続ける。88歳の素顔に迫る、感動のドキュメント。

宮城まり子さんの生涯と、ねむの木学園の軌跡とは?宮城まり子:歌声と愛、障害者支援にかけた情熱

📘 この記事で分かる事!

💡 宮城まり子さんが設立した「ねむの木学園」は、障害を持つ子供たちの自立を支援し、その才能を社会に広げました。

💡 歌手、女優として活躍した宮城まり子さんは、晩年、障害者支援に生涯を捧げ、社会に貢献しました。

💡 美智子さまとの交流や、母の教え、そして幼少期の経験が宮城まり子さんの人間性を形成し、その後の活動に大きな影響を与えました。

それでは、宮城まり子さんの生い立ちから、その功績を辿っていきましょう。

母の教えと愛情

宮城まり子さんの母親の教えで、最も影響を与えたものは?

相手を思いやる心

宮城まり子さんの幼少期の経験は、その後の彼女の人生と活動に大きな影響を与えました。

母の愛情と教えが、彼女の人格形成に深く関わっていたことがわかります。

「美智子さまは日本の母」宮城まり子さんが生徒に伝えたこと
「美智子さまは日本の母」宮城まり子さんが生徒に伝えたこと

✅ 宮城まり子さんが設立した「ねむの木学園」の生徒2人が、美智子さまから絵画を購入されたことについて、宮城さんは生徒たちに「美智子さまは日本のお母さんなのよ」と教えていた。

✅ 美智子さまは「ねむの木学園」を訪問された際、生徒の作品である「雪だるまの赤ちゃんエーンエーン」を気に入り、20年後に再びその作品を購入された。

✅ 美智子さまと宮城まり子さんの2人の゛母゛の思いは、生徒たちの心の中で輝き続ける。

さらに読む ⇒女性自身[光文社女性週刊誌出典/画像元: https://jisin.jp/koushitsu/1846795/

美智子さまの温かいお心遣いと、宮城まり子さんの生徒たちへの愛情が、このエピソードから伝わってきますね。

2人の゛母゛の思いが、生徒たちを支えているのだと感じます。

宮城まり子さんは、幼い頃から病気がちな母親に愛情と教えを受けながら育ちました。

特に、4歳の頃に母から教えられた「相手のことを先に思いなさい」という教えは、宮城まり子さんの心に深く刻まれ、現在でも実践しているそうです

母親は、宮城まり子さんの人生に大きな影響を与え、常に寄り添い、励ましている存在であることを、宮城まり子さんは強く感じているようです。

美智子さまのエピソードは、本当に心温まりますね。宮城まり子さんの生徒に対する愛情と、それを支えた美智子さまの優しさ、素晴らしいですね。

歌手としての活動

宮城まり子さんの歌手デビュー曲は?

なやましブギ

宮城まり子さんが、弟さんの死を乗り越えようと音楽活動に励んだ背景には、深い悲しみと愛情があったのですね。

楽曲制作への情熱が伝わってきます。

宮城まり子/唄の自叙伝(枚組)
宮城まり子/唄の自叙伝(枚組)

✅ 宮城まり子さんは、ねむの木学園のこどもたちに歌を教えることに熱中することで、亡くなった弟の悲しみを乗り越えようとしました。

✅ ビクターからCD制作の話を持ちかけられた時、彼女は当初は戸惑いながらも、数多くの楽曲を制作し、感謝の気持ちとともに多くの人に届くことを願っています。

✅ CDには、ねむの木学園のこどもたちと制作した楽曲や、自身が作曲した楽曲、自身のルーツを語る楽曲など、多岐にわたる楽曲が収録されており、彼女の音楽に対する情熱と人生観が伝わってきます。

さらに読む ⇒ねむの木学園のお店出典/画像元: https://www.atelier-mariko.co.jp/product-page/%E5%AE%AE%E5%9F%8E%E3%81%BE%E3%82%8A%E5%AD%90box-cd%E5%94%84%E3%81%AE%E8%87%AA%E5%8F%99%E4%BC%9D

歌手としての宮城まり子さんの波乱万丈なキャリアがよくわかります。

ヒット曲を出すまでの様々な苦労があったのですね。

「毒消しゃいらんかね」が紅白に出場した時は、私も嬉しかったです。

宮城まり子さんは、1939年に小学校卒業と同時に歌手を目指し、弟さんと共に吉本興業に入社しました。

1944年に17歳で大阪花月劇場で初舞台を踏み、戦後、弟さんと共に九州を巡業した後、1948年に21歳で上京し、浅草の舞台に立ちました。

翌年、1949年には劇作家・菊田一夫さんのスカウトで日劇の舞台に出演し、1949年11月には日劇のレビュー「有頂天時代」に出演しました。

1950年2月には、22歳でテイチクから「なやましブギ」でレコードデビューしましたが、売上はパッとしませんでした。

翌年、1951年にはポリドールに移籍し、「ユーアーマイサンシャイン」「恋のサンバ」「地獄のタンゴ」など12曲を録音しました。

しかし、ポリドールが経営不振だったため、1952年にビクターに移籍。

移籍第1弾としてリリース予定だった「二人の天国」は、突然草葉ひかるさんに取って代わられ、ショックで自殺まで考えたそうです。

1952年5月、25歳でビクター移籍後初のレコード「初恋の頃なれば」をリリースした後、第2弾の「あんたほんとに凄いわね」が初のヒットを記録し、同名で映画化もされました

1953年4月、26歳でリリースした「毒消しゃいらんかね」はロングヒットとなり、同年12月31日の「第5回NHK紅白歌合戦」にも初出場を果たしました。

1955年、28歳でリリースした「ガード下の靴みがき」は、たちまち大ヒットし、同年年末の紅白歌合戦で歌唱したことで、日本中に広まりました。

宮城まり子さんの歌手としての歴史は、まさに昭和の音楽史ですね!「ガード下の靴みがき」は私もよく聴きました。まさに、昭和の歌姫!

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歌手・女優 宮城まり子。障害児支援に生涯を捧げた彼女の、愛と希望に満ちた半生を回顧。ねむの木学園創設秘話や、88歳の素顔に迫る感動のドキュメント。