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アントニオ猪木と倍賞美津子の軌跡:出会いから別れ、そして絆は?プロレスラー、アントニオ猪木と女優、倍賞美津子の波乱万丈な夫婦の関係

松竹の看板女優・倍賞美津子とプロレス界のカリスマ・アントニオ猪木の、愛と葛藤に満ちた波乱万丈の人生ドラマ。1億円の豪華結婚から、猪木の事業失敗、借金、そして離婚へ。女優業を休業し新日本プロレスを支えた献身的な妻、猪木を支えた“戦友”としての絆。離婚後も続く二人の関係、そしてそれぞれの人生。プロレス界のレジェンドを語る上で欠かせない、感動と勇気を与え続ける物語。

アントニオ猪木と倍賞美津子の軌跡:出会いから別れ、そして絆は?プロレスラー、アントニオ猪木と女優、倍賞美津子の波乱万丈な夫婦の関係

📘 この記事で分かる事!

💡 1971年の結婚から1988年の離婚まで、二人の関係はプロレス界と芸能界を巻き込み、大きな話題を呼んだ。

💡 新日本プロレスの旗揚げを支えた倍賞美津子の内助の功は、アントニオ猪木の挑戦に不可欠なものだった。

💡 離婚後も固い絆で結ばれ、互いを支え合った二人の関係は、まさに“戦友”と呼ぶにふさわしいものだった。

今回はアントニオ猪木さんと倍賞美津子さんの出会いから離婚、そしてその後の関係性について、各章に分けて詳しく見ていきます。

出会いと結婚:華やかな始まり

倍賞美津子とアントニオ猪木の豪華結婚!そのきっかけは?

先輩レスラーの紹介と1億円の結婚式!

1966年、アントニオ猪木と倍賞美津子は出会いました。

猪木は倍賞美津子に惹かれプロポーズしますが、当時妻子があったため、一度は断られます。

その後、猪木は離婚し、再会を経て結婚へと至ります。

2ページ目)「奇跡の夫婦」アントニオ猪木と倍賞美津子の意外な出会いと別れ

公開日:2022/10/24

2ページ目)「奇跡の夫婦」アントニオ猪木と倍賞美津子の意外な出会いと別れ

✅ アントニオ猪木と倍賞美津子の出会いは、1966年に倍賞美津子が所属していたSKDの公演を猪木が先輩レスラーの豊登に誘われて観に行ったことがきっかけ。

✅ 猪木は倍賞美津子との初デート後すぐにプロポーズするも、当時猪木には妻子がいたため、美津子は返事をしなかった。

✅ 3年後、猪木は離婚して独身になり、友人の依頼で倍賞千恵子のサインをもらいに倍賞家を訪れた際に再会した。

さらに読む ⇒FRIDAYデジタル出典/画像元: https://friday.kodansha.co.jp/article/270920?page=2

猪木さんの熱意と、倍賞さんの決断力が印象的ですね。

3年越しのプロポーズ、ドラマのようです。

豪華な結婚式も、当時の話題を呼んだことでしょう。

1946年生まれの倍賞美津子は、松竹歌劇団出身で、1967年に映画デビューを果たし、女優としてのキャリアをスタートさせました

1960年代後半には、五社英雄監督の『人斬り』で賞を受賞するなど、松竹の看板女優として活躍しました。

一方、プロレスラーのアントニオ猪木は、先輩レスラーの紹介を通じて倍賞と出会い、1971年に結婚。

二人の結婚は1億円をかけた豪華な結婚式で話題を呼びました。

猪木の実弟である猪木啓介氏も、この結婚をきっかけに日本での生活を始めることになります。

いやあ、まさにロマンチックだなあ。猪木さんは本当に倍賞さんのことが好きだったんだろうね。1億円の結婚式なんて、すごい時代だったもんだ。

新日本プロレスの旗揚げと内助の功

猪木を支えた倍賞の愛!新日旗揚げをどう支えた?

自宅道場、女優休業、献身的な資金・宣伝サポート。

新日本プロレス旗揚げのために、アントニオ猪木は多大な借金を背負います。

その窮地を救ったのが、倍賞美津子でした。

彼女の献身的な支えは、猪木の挑戦を支え、新日本プロレスの成長に大きく貢献しました。

今なら何10億という金をかけてやろうとならなかった」アントニオ猪木が語るモハメド・アリ戦の真実←2→【週刊プロレス】
今なら何10億という金をかけてやろうとならなかった」アントニオ猪木が語るモハメド・アリ戦の真実←2→【週刊プロレス】

✅ モハメド・アリとの対戦実現までには約1年を要し、ルール問題などで紛糾したが、アントニオ猪木は諦めずに実現に向けて尽力した。

✅ 猪木は、アリとの対戦を通じて、その対応能力の高さに感銘を受け、作戦ではなく本能的な感性で闘う姿に感銘を受けた。

✅ 結果は引き分けに終わったものの、猪木は、今となっては、あの試合があったからこそ「世界の猪木」という評価に繋がらなかったのかもしれないと考えている。

さらに読む ⇒ ベースボール・マガジン社出典/画像元: https://www.bbm-japan.com/article/detail/28535

まさに二人三脚ですね。

奥様のサポートがなければ、新日本プロレスの今の隆盛はなかったかもしれません。

モハメド・アリ戦も、大きな出来事でした。

猪木は、結婚後まもなく所属団体を追放され、巨額の借金を抱えることになりました。

しかし、倍賞は女優業を休業し、新日本プロレスの旗揚げを支える決意をします。

自宅を道場にするなど、資金面だけでなく、宣伝活動にも尽力。

猪木は自伝で、倍賞の明るさに救われたと語っています。

彼女の献身的な支えは、黎明期における新日本プロレスの存続と、猪木の挑戦に大きく貢献しました

1976年には、モハメド・アリとの異種格闘技戦に倍賞も同行し、その魅力を周囲に印象付けました。

それにしても、奥様の内助の功というのは、本当にすごいものですよね。あの時代は、そういう奥様が多かったんでしょうねえ。

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アントニオ猪木と倍賞美津子の波乱万丈な夫婦関係。離婚、不倫、そして固い絆。プロレス界のレジェンドを支えた女性たちの愛と生き様。