黒柳徹子の戦争体験と平和への願いとは?~『窓ぎわのトットちゃん』、ユニセフ活動から現在まで(?)91歳、黒柳徹子の平和へのメッセージ
太平洋戦争を8歳で経験した黒柳徹子。食べ物も自由も奪われた幼少期の体験は、彼女の平和への揺るぎない願いの原点となった。東京大空襲、疎開、そして戦争責任への深い後悔を経て、ユニセフ親善大使として紛争地へ。絵本『トットちゃんと15つぶのだいず』、長寿番組『徹子の部屋』での発信…年齢を重ねてもなお、戦争の悲惨さを語り継ぎ、未来を担う子供たちへ平和へのメッセージを届ける。
💡 幼少期の戦争体験と、平和への願いを育んだ原点。食べるものがない、泣くことすら許されない日々。
💡 戦時中の疎開生活と母の愛、終戦を迎えた喜びと後悔。青森での生活と、母の支え。
💡 ユニセフ親善大使としての活動と、『窓ぎわのトットちゃん』。戦争の悲惨さを伝える活動。
黒柳徹子さんの戦争体験、疎開生活、そして平和への活動について様々な角度からご紹介していきます。
戦争の影、幼き日の体験
徹子さんの平和への願いの原点は?
戦争、空襲、栄養失調の経験。
黒柳徹子さんは、幼少期に戦争を経験し、その中で食べ物不足や物資の配給、そして泣くことすら許されない状況を目の当たりにしました。
その体験が、彼女の平和への強い願いの原点となります。
公開日:2023/08/15

✅ 東京大空襲後、黒柳徹子さんは母と弟妹と共に青森に疎開し、食料の確保や栄養失調の治療に苦労しながら生活していました。
✅ 終戦を知った際には、父の帰還と爆弾の恐怖からの解放を喜び、戦時中のスルメ欲しさに見送りを繰り返したことを後悔し、ユニセフ親善大使としての活動の原点になったと述べています。
✅ テレビの仕事を「永久の平和に貢献する」という信念のもと続けており、戦争を二度と繰り返してはならないと強く訴えています。
さらに読む ⇒天然生活web出典/画像元: https://tennenseikatsu.jp/_ct/17647051戦争を肌で感じた幼少期の体験は、黒柳さんのその後の活動に大きな影響を与えました。
特に、東京大空襲や栄養失調の経験は、平和への思いを一層強くするきっかけとなりました。
1941年、8歳で太平洋戦争が開戦。
黒柳徹子さんは、食べ物不足、物資の配給、そして泣くことすら許されない状況下で、戦争を肌で感じていました。
日曜学校で泣いて警察官に叱責された経験から、「戦争では泣いてはいけない」という認識を持つようになります。
1945年3月10日の東京大空襲では、通っていた学校が焼失し、彼女は栄養失調にも陥りました。
この体験は、後の彼女の平和への強い願いの原点となります。
あの時代を生きた方だからこその言葉ですね。戦争の悲惨さを、私たちにも分かりやすく伝えてくれます。テレビで見る黒柳さんからは想像もつかない過去です。
疎開生活と母の愛、そして終戦
疎開先での黒柳さんの生活を支えたものは?
母の工夫と物々交換
黒柳徹子さんの戦争中の疎開生活と、それを支えた母の愛、そして終戦の日の出来事について見ていきましょう。
2027年には、黒柳徹子記念ルームが開設予定です。

✅ 青森県南部町に、黒柳徹子さんの疎開時の足跡を収めた展示施設「黒柳徹子記念ルーム」が2027年春に開設される。
✅ 記念ルームでは、黒柳さんの疎開時の記憶を風化させないように、写真や年表、暮らしぶりを再現するほか、ユニセフの活動も紹介し、平和について考える場を提供する。
✅ 2024年12月に黒柳徹子さんの許可を得て、南部町役場南部支所2階に開設予定で、衣装などの展示も検討されている。
さらに読む ⇒ABA青森朝日放送出典/画像元: https://www.aba-net.com/news/news-138567.html青森での疎開生活は、母の工夫によって支えられました。
終戦の日に父の帰りを願う一方で、スルメ欲しさに旗を振った経験は、後に彼女に深い後悔を抱かせました。
空襲後、黒柳さんは母と弟、そして生まれたばかりの妹と共に青森県へ疎開します。
リンゴの見張り小屋での質素ながらも快適な生活は、音楽学校出身の母の工夫によって支えられました。
母は近隣との物々交換で食料を調達し、家族を支えました。
終戦の日、父親の安否を気にかけつつも、爆弾の恐怖から解放された喜びを感じました。
しかし、出征兵士を見送る際にスルメ欲しさで旗を振った経験は、後に深い後悔へとつながります。
記念ルームの開設、良いですね。過去の記憶を風化させず、後世に伝える活動は素晴らしいと思います。黒柳さんの想いが伝わってきます。
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黒柳徹子、戦争の記憶を未来へ。後悔と平和への願いを胸に、ユニセフ活動、絵本、番組で発信。戦争を知らない世代へ、命の尊さを伝え続ける。