有馬稲子、宝塚から銀幕へ、そして人生の舞台へ?有馬稲子の華麗なる軌跡:舞台、結婚、そして現在
宝塚出身の名女優、有馬稲子。華やかな結婚生活と波乱万丈な離婚、そして再婚... 映画、舞台で輝きを放ち続ける彼女の人生を追う。代表作『葬式の名人』、『無法松の一生』など、幅広いジャンルで観客を魅了。晩年はガーデニングを楽しみ、今もなお輝き続ける彼女の姿を描く。
💡 宝塚歌劇団で活躍後、映画界へ進出し、数々の作品で主演を務めました。
💡 中村錦之助との結婚と、その後離婚。波乱万丈な結婚生活でした。
💡 晩年は芸能活動を休止し、シニア向けマンションで穏やかな生活を送っています。
有馬稲子さんの華麗なるキャリアを、多角的に見ていきましょう。
まずは、彼女の輝かしいスタート地点から。
華麗なる舞台への道
有馬稲子さんの出身地は?
大阪
本日は、有馬稲子さんの華麗なる経歴についてご紹介します。

✅ 有馬稲子は、宝塚歌劇団出身の女優であり、1932年生まれ。本名は中西盛子で、養母の影響で幼い頃から日本舞踊を習っていた。
✅ 宝塚歌劇団に入団後、主演娘役として活躍し、1951年に映画デビュー。その後、映画への関心を深め、1953年に宝塚歌劇団を退団し、東宝の専属女優となる。
✅ 1954年に「文芸プロダクションにんじんくらぶ」を設立し、活発に活動する一方で、1955年に松竹に移籍。1961年に俳優の中村錦之助と結婚し、その後も女優として活躍を続けた。
さらに読む ⇒出典/画像元: https://www.wikiwand.com/ja/articles/%E6%9C%89%E9%A6%AC%E7%A8%B2%E5%AD%90宝塚歌劇団での活躍から映画界へ。
鮮烈なデビューですね。
東宝専属女優として活躍、そして映画製作にも携わっていたとは。
有馬稲子さんは、1932年4月3日生まれの大阪出身の女優です。
幼少期は釜山で養父母のもとで育ち、9歳で養父を亡くしました。
高校時代はバレーボール部に入部し、友人の勧めもあり宝塚音楽学校を受験し、17歳で宝塚歌劇団36期生として入団、二代目有馬稲子を襲名しました。
宝塚歌劇団では主演娘役として活躍しましたが、映画に興味を持ち、1953年に宝塚を退団し、東宝の専属女優となります。
その後、岸惠子さん、久我美子さんらと共に映画製作プロダクション「文芸プロダクションにんじんくらぶ」を設立し、活発な活動を続けました。
1955年には松竹に移籍し、岡田茉莉子さんと共に二枚看板として活躍しました。
いやあ、有馬稲子さんと言えば、やっぱり宝塚のイメージが強いねえ。あの頃の宝塚は本当に華やかだった。
華麗なる舞台と華麗なる結婚
有馬稲子と萬屋錦之介の結婚生活はどのくらい続きましたか?
わずか3年7ヶ月
中村錦之助さんとの結婚は、まさにビッグカップルの誕生でした。

✅ 1961年11月27日、映画スターの中村錦之助(萬屋錦之介)と有馬稲子が東京・銀座のホテルで挙式しました。
✅ 東映の大川博社長夫妻が媒酌を務め、披露宴には千人以上の招待客が訪れ、高さ2メートルを超えるウエディングケーキも話題になりました。
✅ しかし、結婚からわずか4年後の1965年に離婚しています。
さらに読む ⇒(よんななニュース)出典/画像元: https://www.47news.jp/7098837.html結婚生活は短い期間でしたが、華やかな話題に事欠かない結婚生活でした。
離婚理由は、様々な要因があったのですね。
有馬稲子さんは、1961年、29歳の時に俳優の中村錦之助(萬屋錦之介)さんと結婚しました。
出会いは雑誌の対談で、翌年の映画共演をきっかけに交際が始まり、結婚に至りました。
結婚式は銀座東急ホテルで行われ、1000人以上の招待客が集まる盛大なものでした。
結婚後は、萬屋錦之介さんの父親から京都に900坪の土地と150坪の豪邸をプレゼントされ、プールや体育館も備えたセレブな生活を送っていました。
しかし、結婚生活はわずか3年7ヶ月で終わりを迎えます。
離婚理由は、萬屋錦之介さんの多忙による多人数での宴会の開催、嫁姑問題などがあったと言われています。
また、有馬稲子さんは萬屋錦之介さんと結婚する前に、映画監督との間に子供を中絶した経験があり、その影響で子供を授かることができなかったそうです。
中村錦之助さんとの結婚!銀座での結婚式なんて、まさに昭和の華ですね。豪華絢爛で、まるで映画のワンシーンのようです。
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宝塚、映画、舞台で活躍した女優、有馬稲子。晩年は高級ケアマンションでガーデニングを楽しみ、数々の名作に出演。波乱万丈な人生と輝き続けるその姿に迫る。