横井庄一とは?ジャングル生活28年と帰国後の人生とは?グアム島ジャングル生活と帰国後の横井庄一
28年間グアムのジャングルで生き抜いた横井庄一。戦後、帰国した彼のカルテから、過酷な環境下での生存術と精神的苦悩が明らかに。栄養失調、幻覚…それでも生きた。ジャングル生活を物語る貴重な資料や、彼を巡る社会の葛藤、漫画家による軽率な表現への批判も。横井庄一の壮絶な生涯から、戦争の記憶と人間の強さを問いかける。
💡 太平洋戦争終結後もグアム島のジャングルに潜伏し28年後に帰還した元日本兵、横井庄一。
💡 ジャングルでの生活を支えた自給自足の工夫と、帰国後の社会との葛藤。
💡 横井庄一のカルテから読み解く、戦争の傷跡と人間の生存能力。
まずは、横井庄一さんがどのような人物だったのか。
彼の生きた時代背景とともに、その生涯を紐解いていきましょう。
ジャングルでの28年間
28年間ジャングルで生き延びた横井庄一さんは、一体何をして生き抜いたのでしょうか?
自給自足で生き延びた
横井庄一さんが、なぜ28年間もジャングルに潜伏することになったのか、その背景に迫ります。

✅ 昭和47年(1972年)にグアム島のジャングルで発見された元日本兵・横井庄一さんは、終戦後もジャングルに籠もり続け、帰国時には「恥ずかしながら帰って参りました」という言葉を残しました。
✅ この言葉は、帰国第一声と記者会見での発言をあわせ、敬意と親しみを込めて使われたフレーズです。
✅ 2年後にはフィリピン・ルバング島から元少尉の小野田寛郎さんが帰還し、日本中が衝撃を受けました。
さらに読む ⇒読売新聞オンラインニュース&お得サイト出典/画像元: https://www.yomiuri.co.jp/yomidr/article/20210428-OYTEW776836/終戦を知らずに潜伏を続けた横井さんの姿は、現代の私たちには想像もつかない過酷な状況だったことが伺えます。
1915年、愛知県で生まれた横井庄一さんは、太平洋戦争中にグアム島に配属されました。
1944年、アメリカ軍が上陸し、日本軍は壊滅状態に陥りますが、横井さんはジャングルで生き延びます。
戦死とみなされ家族のもとには戦死通知書が届きますが、横井さんは28年間、ジャングルの中で自給自足し、戦友との別れや孤独と戦いながら生き延びました。
1972年に地元住民に発見され、日本に帰国します。
いやあ、横井さんの「恥ずかしながら」って言葉、本当に胸に響くよね。あの時代、色んな思いがあったんだろうな。
グアム島生活資料
横井庄一さんのグアム島生活資料から何がわかる?
生存術と創意工夫
横井庄一さんのジャングル生活の詳細は、彼のカルテから明らかになりました。
その内容を見ていきましょう。

✅ 横井庄一のカルテが公開され、ジャングル生活28年間の過酷な状況や、精神的な苦悩が明らかになりました。
✅ カルテには、栄養失調による身体的衰弱に加え、錯乱や幻覚などの精神的な症状が記録されており、横井が戦争のトラウマと、捕虜になる恐怖にさいなまれていたことがわかります。
✅ 横井が28年間もジャングルに潜伏していた理由として、島民に殺される恐怖が挙げられており、戦争が終結したことを知らされていなかったこと、そして、捕虜になることへの恐怖が、横井を長くジャングルに留まらせた要因の一つであることが示唆されています。
さらに読む ⇒【公式ホームページ】出典/画像元: https://hicbc.com/magazine/article/?id=documentary-21122401想像を絶する環境下で、横井さんがどのようにして生き延びたのか、その知恵と工夫に感銘を受けました。
横井庄一さんのグアム島生活資料は、1972年に発見された際に持ち出していたもので、旧日本軍の飯盒や水筒、ハサミ、スプーンなど、本来の用途で使用したものに加えて、元の用途とは異なる用途に改造されたものも含まれています。
さらに、グアム島で採れる植物を加工した消し炭、竹筒、草鞋、ヤシの繊維製のロープ、パゴの木の繊維で作った布地と洋服などが含まれており、横井氏がジャングルの中でどのように生き延びてきたのかが伺えます。
これらの資料は、歴史的な価値だけでなく、人間の生存能力と創意工夫の素晴らしさを物語る貴重な資料です。
当時の生活用品から、横井さんのサバイバル術が垣間見えますね。まさに、人間の知恵と工夫の結晶です。
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横井庄一さんの帰国直後のカルテを入手!ジャングル生活の詳細や苦悩が明らかに。壮絶な戦後、社会との葛藤、そして尾田栄一郎氏の漫画ネタ批判も。戦争の記憶を風化させない為に。