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太地喜和子とは?波乱万丈の生涯と、今も語り継がれる魅力とは?伝説の女優、太地喜和子の知られざる素顔

妖艶な美貌と圧倒的な演技力で観る者を魅了した女優、太地喜和子。ヌードを厭わぬ大胆な演技で一世を風靡し「杉村春子の後継者」とも謳われた。映画、ドラマ、舞台で活躍し、数々の男性遍歴も話題に。華やかなキャリアの裏で、失明への恐怖と闘い、48歳の若さで急逝。その波乱万丈の生涯は、今も人々の記憶に深く刻まれている。

三國連太郎との関係と女優としての転換期

太地喜和子は、三國連太郎との関係でどんな葛藤を抱えていたのか?

杉戸八重への嫉妬

太地喜和子さんの人生を語る上で、三國連太郎さんとの関係性は欠かせません。

映画「飢餓海峡」のロケを追いかけるほどだったんですね。

飢餓海峡:映画作品情報・あらすじ・評価
飢餓海峡:映画作品情報・あらすじ・評価

✅ 1964年の十号台風の日、北海道岩内で質店一家三人が惨殺され、犯人は放火して姿を消した。その直後、青函連絡船が嵐で沈没し、船客530人が亡くなった。

✅ 函館警察の刑事弓坂は、連絡船の死体収容中に、船客名簿にも載っていない死体を見つける。さらに岩内警察からの報告から、質店店主が事件前に網走を出所した強盗犯と会っていたことが判明し、弓坂は事件に繋がりを感じ始める。

✅ 弓坂は事件の真相を追う中で、犯人である犬飼多吉が青森県下北半島に上陸したことを突き止める。その後、犬飼と関係があった芸者・杉戸八重が、十年の時を経て舞鶴で心中死体として発見されるが、それは偽装殺人と判明。八重の懐中から見つかった舞鶴の澱粉工場主・樽見京一郎の寄付に関する新聞記事が、樽見が犬飼であることを示す証拠となる。

さらに読む ⇒ ムービーウォーカープレス 映画出典/画像元: https://press.moviewalker.jp/mv21347/

嫉妬心から俳優座に戻った、というのは、人間らしいエピソードですね。

緑内障を患い、失明の恐怖にさいなまれたという部分は胸が痛みます。

太地は、当時の女優としては池波志乃らと共に大変な酒豪で鳴らしました。

「本当に愛したひとは三國さんだけ」と公言し、映画『飢餓海峡』のロケを追い俳優座を辞め北海道に渡りますが、左幸子演ずる杉戸八重に嫉妬し、数ヶ月で俳優座に戻り女優一筋の道を選びます。

その後文学座で加藤武に育てられます。

その後、雑誌上で三國と最初で最後の対談をしていますが、その場でも八重に対する猛烈な嫉妬心を語っています。

この頃から緑内障を患い、失明の恐怖にさいなまれるようになりました。

映画の内容も、また凄惨な事件ですなぁ...。時代を感じます。演技の世界は、当時は今とは違う難しさがあったんでしょうなぁ。

悲劇の事故死と芸能界からの惜別

太地喜和子はどのように亡くなりましたか?

海に転落した事故

舞台女優としても活躍し、多くの人々に愛された太地喜和子さん。

その晩年、突然の事故死という悲劇に見舞われました。

太地喜和子の死因は事故!藪の中の黒猫!白い巨塔!志村けんの大ファンだった?
太地喜和子の死因は事故!藪の中の黒猫!白い巨塔!志村けんの大ファンだった?

✅ 太地喜和子さんは、1968年の映画「藪の中の黒猫」で妖艶な猫の妖怪役を演じ、一躍スターダムに駆け上がりました。その後、1976年の映画「男はつらいよ・寅次郎夕焼け小焼け」でマドンナ役を演じ、寅さんと意気投合する情に厚い芸者を好演し、賞を受賞しています。

✅ 1978年には、テレビドラマ「白い巨塔」で財前五郎の愛人、花森ケイ子役を演じ、その地位を不動のものにしました。優しさや控えめさの中に芯の通った演技は、見るものの心に強く印象を残しました。

✅ 太地さんは、舞台女優としても活躍し、舞台「欲望という名の電車」では長年ヒロインのブランチ役を務め、女優の杉村春子さんから後継者として期待されていました。

さらに読む ⇒こいもうさぎのブログ出典/画像元: https://koimousagi.com/16564.html

48歳という若さで亡くなられたのは本当に残念です。

志村けんさんの番組にも出演していたんですね。

生前の姿が目に浮かびます。

1992年10月13日、静岡県伊東市での『唐人お吉』公演期間中の午前2時過ぎ、俳優3人が立ち寄ったスナックのママが運転する乗用車(トヨタ・スプリンターシエロ)が桟橋から海に転落する事故により死去しました。

同乗者の外山誠二と大滝寛、および運転していたママは泳いで脱出しましたが、太地は泳げなかった上、乗車前に深酒をしていたことから生還できませんでした。

駆けつけた佐藤陽子は「死に顔は眠っているようだった」と語っています。

48歳没。

墓所は豊島区勝林寺。

太地の事故死直後、プライベートでも親友だったカルーセル麻紀が自身の舞台上で感極まり「喜和子ぉ!!」と絶叫しながら号泣した場面がワイドショー等で放送されました

志村けんの大ファンであり、その縁でTBS系『加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ』に出演したほか、フジテレビ系『志村けんのだいじょうぶだぁ』ではコントにも挑戦。

柄本明と共に常連ゲストとなり、亡くなった際には急遽番組で追悼企画が組まれ、1992年10月19日に放送されました。

まさか、スナックのママが運転する車が事故を起こすとは...。あの時代は、色々な出来事がありましたなぁ。カルーセル麻紀さんの涙が印象的です。

太地喜和子の魅力と記憶に残るエピソード

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彼女の魅力と、記憶に残るエピソードを振り返りながら、太地喜和子という女性を改めて見つめ直します。

太地喜和子
太地喜和子

✅ 太地喜和子さんは、1943年生まれの女優で、1992年に48歳で亡くなりました。彼女は映画や舞台で活躍し、特に新藤兼人監督の映画「藪の中の黒猫」で全裸の演技で有名になりました。

✅ 彼女は俳優座養成所で学び、文学座に所属していました。また、三國連太郎さんとの交際が有名で、映画「飢餓海峡」のロケを追い俳優座を辞めたこともありました。後に緑内障を患い、失明の恐怖にさいなまれるようになりました。

✅ 1992年10月13日、静岡県伊東市での公演中に、乗用車が桟橋から海に転落する事故で亡くなりました。同乗者は脱出しましたが、太地さんは泳げなかったため、生還できませんでした。彼女は志村けんさんの大ファンであり、彼の番組にも出演していました。

さらに読む ⇒出典/画像元: https://movies.fandom.com/ja/wiki/%E5%A4%AA%E5%9C%B0%E5%96%9C%E5%92%8C%E5%AD%90

若い頃から、様々な恋愛遍歴があったんですね。

中村勘三郎さんとの関係も、興味深いエピソードです。

1970年代半ばには、大河ドラマ『風と雲と虹と』で共演した俳優の露口茂の名前を理想の男性として挙げていました。

太地は、映画『藪の中の黒猫』でのヌード演技で注目を集め、その後も映画、ドラマ、舞台で活躍しました。

1973年と1976年にはNHK大河ドラマに出演、1976年には映画『男はつらいよ』でマドンナ役、1978年にはテレビドラマ『白い巨塔』で花森ケイ子役を演じ、人気女優の地位を確立しました。

太地喜和子と十八代目中村勘三郎の熱愛は、中村勘三郎が19歳の頃に女性週刊誌「微笑」でスクープされたことから明らかになりました。

当時、中村勘三郎は五代目中村勘九郎を名乗り、若手ながら人気歌舞伎俳優として活躍していました。

太地は大ベテラン女優として知られており、この熱愛報道は大きな話題となりました。

中村勘三郎は太地に入れ込んでおり、父親である先代中村勘三郎を説得して交際を認めさせたと言われています。

しかし、2人の関係は約3年で破局を迎えます。

中村勘三郎は太地との交際前に、1歳年上の女優・吉沢京子さんと結婚の約束をしていたとされています。

吉沢京子が中村勘三郎の家を訪ねた際に、太地が一緒にいて別れを告げられたというエピソードも有名です。

太地と中村勘三郎は共演経験はありませんでした。

中村勘三郎は、太地主演の舞台「桜吹雪日本の心中」を観劇して彼女に魅了され、熱烈なファンになったそうです。

2人の馴れ初めは、中村勘三郎が太地の舞台を観劇したことがきっかけでした。

しかし、2人の関係は長くは続かず、破局に至りました。

中村勘三郎とのスキャンダルは知らなかったなぁ。大女優と歌舞伎役者の恋愛は、派手で面白い。当時の女性週刊誌も賑わったでしょうなぁ。

女優としての華々しい活躍、そしてその裏にある様々な人間ドラマ。

太地喜和子という女性の生き様は、今も多くの人の心に響きますね。

🚩 結論!

💡 東映ニューフェイスから文学座へ。映画、舞台、ドラマと多岐にわたる活躍をした、女優太地喜和子の軌跡。

💡 三國連太郎との関係、中村勘三郎との熱愛など、スキャンダラスな側面も持ち合わせた、魅力的な女性。

💡 48歳という若さで突然の事故死。その死は、多くの人に惜しまれ、今も語り継がれる。