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テリー・ファンクの軌跡!伝説のテキサス・ブロンコ、日本プロレスを語る?テリー・ファンク:伝説の試合と、日本での人気

テリー・ファンク、不屈の魂!1965年デビュー、NWA世界王座、ジャンボ鶴田との名勝負… 昭和プロレスを席巻したテリーの激闘を凝縮。凶器攻撃も辞さない姿は、まさに時代のヒーロー。引退、そして電撃復帰。全日本プロレスを愛し、ファンを熱狂させた男の、波乱万丈なプロレス人生を振り返る。2023年に逝去、その伝説は永遠に。

テリー・ファンクの軌跡!伝説のテキサス・ブロンコ、日本プロレスを語る?テリー・ファンク:伝説の試合と、日本での人気

📘 この記事で分かる事!

💡 テリー・ファンクは、1977年の試合で日本での人気を決定的にし、その熱狂的な試合展開は今も語り継がれています。

💡 テリー・ファンクは、1970年代から1980年代にかけて、日本のプロレス界で外国人レスラーとして大活躍しました。

💡 テリー・ファンクは、引退後もプロレス界に影響を与え続け、そのレガシーは今もなお輝きを増しています。

それでは、テリー・ファンクの輝かしい功績を振り返りながら、彼のプロレス人生を紐解いていきましょう。

テキサス・ブロンコの輝かしいキャリア

テリー・ファンクが日本で人気になったきっかけは?

凶器攻撃の試合

プロレス写真記者の視点から、テリー・ファンクの日本での活躍を詳細に解説していきます。

絶叫、失神するファンも…テリー・ファンクはなぜ日本でこれほど愛されたのか?カメラマンが見つめた「テキサスの荒馬」の素顔
絶叫、失神するファンも…テリー・ファンクはなぜ日本でこれほど愛されたのか?カメラマンが見つめた「テキサスの荒馬」の素顔

✅ この記事は、プロレス写真記者が、テリー・ファンクとの思い出や、日本でブレイクした試合について語っている。

✅ 特に、1977年12月の世界オープンタッグ選手権の最終試合で、アブドーラ・ザ・ブッチャーとザ・シークがテリーに凶器を突き刺したシーンが、テリーを日本でブレイクさせた重要な出来事だったと述べている。

✅ テリーは、その試合で受けた痛みに耐え、観客を魅了したことで、多くの女性ファンを獲得し、絶叫や失神するファンまで現れたという。

さらに読む ⇒ナンバー出典/画像元: https://number.bunshun.jp/articles/-/858617?page=1

テリー・ファンクが、アブドーラ・ザ・ブッチャーとザ・シークとの試合で受けた傷を乗り越え、観客を魅了し、女性ファンを獲得したというエピソードは、非常に印象的ですね。

1965年、テリー・ファンクはプロレスラーとしてデビューし、父のプロモートしていたアマリロ地区でキャリアを積みました。

1970年には日本プロレスに初来日し、1972年には全日本プロレスの旗揚げシリーズに参加し、看板外国人選手として活躍しました

1973年10月には、インタータッグ戦で馬場さんのジャイアントな脳天チョップに超特大バンプで応えるシーンがありました。

1975年にはNWA世界ヘビー級王座を獲得し、兄ドリーと共に史上初の兄弟世界王者となりました。

1976年には世界最高峰NWA王者として参戦し、防衛成功後、小鹿社長の仲介でジャンボ鶴田とガッチリ握手しました。

同年6月11日には、蔵前国技館でジャンボ鶴田と初撮影となる試合を行い、ローリング・クレイドルが記憶に残っています。

1977年2月まで全米をサーキットし、同年12月には、アブドーラ・ザ・ブッチャーとザ・シークとの試合で、凶器によるテリーへの攻撃が凄惨で、女性ファンが悲鳴を上げた場面がありました。

この試合はテリーが日本でブレイクするきっかけになったと言われています。

翌年、世界最強タッグに名称変更されたチームに、ザ・ファンクスが加入し、テリーは映画スターのような風貌で多くの女性ファンを獲得しました。

中には試合中に絶叫したり、失神するファンもいたそうです。

いやあ、あの頃のプロレスは熱かった。テリー・ファンクの試合は、本当に血が騒いだもんだよ。プロレスは、男のロマンだった。

伝説の名勝負と日本での人気

テリー・ファンクはどんな伝説を残した?

不屈の闘志で勝利

テリー・ファンクとブッチャー&シークの試合は、プロレスファンなら知らない人はいない伝説の一戦ですね。

ファンクスブッチャーシーク〜フォークの惨劇!

公開日:2018/07/23

ファンクスブッチャーシーク〜フォークの惨劇!

✅ 1977年の全日本プロレス世界オープンタッグ選手権最終戦において、ザ・ファンクスとブッチャー&シークの試合が、フォークを用いたブッチャーの凶器攻撃により伝説的な試合となった。

✅ この試合は、フォークを使った反則行為やレフェリーの曖昧な判定など、プロレスの「アバウトさ」が際立つ試合であり、勧善懲悪のストーリーと選手の熱演によって観客を熱狂させた。

✅ 特に、テリー・ファンクが試合中に負傷し、兄のドリーが孤立無援の中で奮闘する展開は、観客の心を掴み、テリー・ファンクはその後人気アイドルレスラーとして活躍することになった。

さらに読む ⇒年生まれ男のロマン出典/画像元: https://www.roman-blog.com/pro_wrestling/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%B3%E3%82%AF%E3%82%B9vs%E3%83%96%E3%83%83%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%83%BC%E3%82%AF%E3%80%9C1977-12-15-%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%BC%E3%82%AF%E3%81%AE%E6%83%A8

フォーク攻撃やレフェリーの曖昧な判定など、プロレスの持つ独特のアバウトさが、観客をより熱狂させたのでしょう。

テリー・ファンクの不屈の精神に、多くの人が心を打たれたのだと思います。

1977年、テリー・ファンクは、全日本プロレスの世界オープンタッグ選手権決勝で、アブドーラ・ザ・ブッチャーのフォーク攻撃を受け、重傷を負いながらも、不屈の闘志を見せ勝利を収めました。

この試合は゛伝説の名勝負゛として語り継がれ、テリー・ファンクは日本プロレス史上最も人気のある外国人レスラーとなりました。

当時の日本人は、テリーの勧善懲悪的なストーリー、兄弟愛、テキサス・ブロンコ(魂)といった不屈の精神に共感しました。

彼はサッポロビールを愛し、試合後にはよくビールを飲んでいたそうです。

テリー・ファンクが愛したサッポロビール、私もよく飲みましたね。試合後のビールは格別だったでしょう。

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